MONOLOGUE de Di-Maccio
自己を語る
ジェラ―ル・ディマシオ

 父はナポリ(イタリア)生まれ、母はマヨルカ島パルマ(スペイン)生まれ。
二人はある祭りの時、アルジェで出会った。
父の職業は漁師、祖父も同じ。二人ともイワシ漁の船をもっていた。
 そのアルジェで私は生まれた。国籍はフランス。

 15歳の時、靴屋をしていた母方の祖父が、私が描いたデッサンを
「とても美しい」と、店内に飾ってくれた。
アルジェの小さな靴屋に、私の絵が初めて額に入れられて揚げられ、
公衆の前に展示されたのだ。
これは私にとって大きな励みとなった。
この時の感激は今なお忘れぬ思い出である。
 これに元気づけられて、私は「美術学校に入りたい」
と、両親に頼んだが、父は私を父の兄弟と同じ洋服仕立師にしたがっていた。
そこで私は自分がそんな職業には向いていないこと、
むしろ画家になる方が適している事を父に納得させなければならなかった。
 また私は、音楽家が音階を自分のものにするため、休みなしに絶えず練習するように、
自分で見るものをすべてスケッチして毎日を過ごした。
食堂の調度品から階段の手すり、近くの教会、いろいろな物体まで、
すべてのものが私の訓練に役立った。
私は出会った人々を含めて、常にデッサンの手を休めなかった。
つい先月、家の地下の酒蔵に、この時代に描いた何千枚にも及ぶ
デッサンが入っている大きなカバンを発見した。

 パリに来た時、私は16歳であった。勉強を続け、
教員資格をとるために美術史や解剖学、投視図法などを勉強した。
試験にはあっさり合格することができ、パリ市のデッサン教師に採用された。
豊富な自由時間にまかせて、
私はルーベンス、フィレンツェ派の画家たちの作品を模写する修業を始めた。
ブラック、ピカソ、マティスも模写してみたが、
私自身の個性を表現できないことに気がつき、
何の束縛もない自由奔放なフォルム(形態)を描くため自らを解放することにした。
 私はまず小さなサロン、次いでグラン・パレ(Grand Palais)に出品した。
1979年に1点の油絵をアンデパンダン展に出したところ、
パリのチュルビゴ街にある画廊ギャルリ・ラー(Galerie RA)の経営者の目にとまり、
その経営者から画廊で展覧会を開きたいと申し入れがあった。
これが私の、プロの画家として最初の展覧会であり、大成功をおさめるとともに、
私は絵だけで生計を立てられるようになった。
そこで私は教職をはなれ、自分の芸術に没頭するようになり、
結果的に私の生徒たちをがっかりさせてしまった。
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